ヨーロッパ人が世界の植民地化を開始した当初、最も力のあった王国はスペインとポルトガルでした。. なんと、エジプトのピラミッドに眠るミイラに、アジアから取り寄せられたであろうシナモンやクローブが使用されていることがわかっています。 またその後、古代ローマの時代になっても、そしてヨーロッパ諸国が力を持つ時代になっても、依然として香辛料は高値で取引されており、王侯貴族や中産階級の人々のあいだで常に重宝されていました。 ではなぜ、ヨーロッパで香辛料が高値で取引されていたかというと… ・香辛料の殺菌作用は肉や魚などの腐敗を防ぐため需要があった (風味も良く、 … 大航海時代とは15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ人が航海や探検によってインド洋や大西洋に進出した時代のこと。はじめにポルトガルがアフリカ航路へ、次にスペインが「新大陸」とよばれる南北アメリカなど大西洋へと乗り出していきました。. 大航海時代でポルトガルとスペインは覇権を争っていました。日本で布教していたフランシスコザビエルはポルトガル人宣教師です。後に来日して織田信長や安土城の記録をまとめたルイスフロイスもポルトガル人の宣教師です。 ポルトガルは、1488年にアフリカ南端に到達することに成功しました。 そして バスコ ... なぜ大航海時代が始まったのかを説明できるようにしましょう。 ポルトガルとスペインの航路を地図を見て確認しておきましょう。 古代から中世 人類の始まりへ. 8.ポルトガルのインド航路開拓 ... マヌエル1世はエンリケから変わらず継承されてきたポルトガルの航海事業の更なる発展に燃え、即位2ヶ月後にはインドへの船隊派遣事業案を議会に提出します。 ヴァスコ・ダ・ガマ(1460ー1524 HOME. document.write('Copyright © 2005-'+ nowyear +' BeneDict Corporation. 国土面積は日本の1/4、人口は1000万人ほど。オリーブ油とワイン以外、これといった産業もない。ところが、歴史上燦然と輝く大航海時代は、この小さな王国から始まったのである。 ポルトガルが大航海時代を先行した理由は3つある。王室が海洋貿易を主導したこと、ジェノヴァ商人が参加したこと、地理に恵まれたことである。, ポルトガルはイベリア半島の西方にあって、大西洋に面している。しかも、南北に長く伸びて、寄港地が並ぶので、航海者にとって都合が良かった。 13世紀、イタリアの商業都市ジェノヴァとヴェネツィアは、地中海貿易の覇権をめぐって激しく争っていた。そのとき、ジェノヴァが目をつけたのがフランドル地方だった。フランドルは英語名フランダース、日本では童話「フランダースの犬」以外あまり知られていない。ところが、ヨーロッパでは経済と文化の中心地として有名である。, 中世のフランドルは、現在のベルギーを中心にフランス、オランダの一部を含む地域で、北部は北海に面していた。13世紀以降、毛織物工業を中心に商業が大発展し、大砲の生産でも世界一を誇った。都市部では、裕福なブルジョアが台頭し、独特なフランドル文化も生まれた。中でも有名なのが、フランドル絵画である。15世紀に、ファン・エイク兄弟が油彩技法(油絵)を確立し、16世紀には、ブリューゲルが素朴な農民生活を描いた。17世紀に入ると、巨匠ルーベンスが立体的でダイナミックな画法で革命を起こす。眺めているだけで、無数のシーンを連想させる不思議な力がある。童話「フランダースの犬」の中で、主人公ネロが憧れるのもこのルーベンスだ。, このような 「商業の発達 → 都市の繁栄 → ブルジョアの台頭 → 文化の発展」 の歴史の方程式は、北イタリア都市とルネッサンスにもあてはまる。 豊富なヒト・モノ・カネにくわえ、高い文化を誇るフランドル地方に、ジェノヴァ商人が目をつけたのは自然の成り行きだった。, ジェノヴァ商人は、フランドル地方と地中海を結ぶ交易の乗り出した。 1.フランドル地方の毛織物を地中海世界に運ぶ。 2.東アジアの香辛料や地中海のオリーブやブドウ酒をフランドルへ運ぶ。 問題は貿易ルートである。ジェノヴァ商人は、地中海からジブラルタル海峡を抜け、大西洋を北上し、そのまま北海に入り、フランドル地方に到る。何の変哲もない海路だが、一つ問題があった。「大西洋」である。, この時代、ジェノヴァ商人が利用したのはガレー船だった。ガレー船は、古くから地中海で、海戦や貿易に使われた。地中海は風が弱く、吹いたり吹かなかったりで、推力としてはあてにできない。そこで、船の両舷にたくさんの櫂(かい)を並べて、人力で漕いだのである。一応、帆もあったが、あくまで補助。また、地中海は波が穏やかなので、喫水が浅く、船体が低くても問題はなかった。つまり、ガレー船は内海専用の船だったのである。, ところが、大西洋は外洋で、風が強く、波も高い。喫水が浅く、船体の低いガレー船はすぐ転覆した。そのため、ジブラルタル海峡を抜けた後、大西洋を一気に突き抜けるのはムリ。イベリア半島の沿岸沿いに、恐る恐る北上するしかなかった。 また、ガレー船にはたくさんの漕ぎ手が必要なので、その分、積み込む食糧と水が増える。ところが、ガレー船は船体が低い分、積める量が少ない。そのため、頻繁に寄港し、補給する必要があった。, こうして、ポルトガル西岸部の港町は、ジェノヴァ商人の寄港地として栄えたのである。その後、ポルトガルはジェノヴァとの関係をさらに深め、ジェノヴァ商人から「航海術」と「金融システム」を学んだ。大西洋に面した細長い国土が、大航海時代に必要なアイテムを呼び寄せたのである。, ここで、大航海時代以前のイベリア半島の歴史をみてみよう。この地は、紀元前2世紀頃、ローマ帝国の属州だった。5世紀に西ゴート族、8世紀にはムーア人によって征服されている。ムーア人とは、イスラム化したベルベル人のことである。, 7世紀、アラビア半島に興ったイスラム勢力は、8世紀初頭にはアフリカ西北部に侵入、勇猛で知られたベルベル人を征服した。その時、イスラム教に改宗したベルベル人、つまりムーア人がイベリア半島を征服したのである。, 711年、西ゴート王国は崩壊し、生き残った王侯貴族はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込んだ。すでにキリスト教化していた西ゴート族は、そこで、いくつかのキリスト教国を建てた。その中に、西ゴート王国の貴族ペラーヨがいた。718年、ペラーヨは土着のアストゥリアス人と組んで、アストゥリアス王国を建国、コバドンガの戦でイスラム軍をやぶった。これが、レコンキスタ(国土回復戦争)の始まりである。, レコンキスタとは、イスラム勢力に征服されたイベリア半島を、キリスト教国が再征服する戦争をさす。この戦いは、その後800年もつづき、1492年、グラナダの陥落をもって終了した。 ペラーヨが創設したアストゥリアス王国はレオン王国に継承され、その後、配下のカスティーリャ伯が勢力を拡大、961年に独立した。これが、カスティーリャ王国である。, 1037年、カスティーリャ王国はレオン王国を併合し、レオン・カスティーリャ王国となった。以後、レコンキスタはレオン・カスティーリャ王国が主導していく。 1093年、レオン・カスティーリャ王国は、アンリ・ド・ブルゴーニュにポルトガル伯の爵位を与えた。その子アフォンソ・エンリケスは、1143年にカスティリャ王国から独立し、ポルトガル王アフォンソ1世として即位する。1179年には、ローマ教皇の口添えもあり、ポルトガルの独立が承認された。これが、ポルトガル王国の起源「ブルゴーニュ朝」である。, ポルトガルのレコンキスタ(国土回復戦争)は、1249年に終了し、1260年には、アフォンソ3世はリスボンに遷都し、強力な王権を確立する。この頃、ヨーロッパ諸国は、国王の力が弱く、地方は諸侯が支配する封建国家であった。ではなぜ、ポルトガルはいちはやく中央集権体制を確立できたのか?おそらく、レコンキスタのおかげ。イスラム教徒との絶え間ない戦いで、強力なリーダーシップが生まれたのである。, このように、ポルトガルが盤石な国家体制を整えた頃、先のジェノヴァ商人のフランドル貿易が始まった。1300年に入ると、ポルトガル西岸の港町は、ジェノバ商人の寄港地として大いに栄えた。さらに1317年には、ポルトガルとジェノバ商人の未来を決定づける事件が起こる。, ポルトガル王ディニスが、ジェノヴァの商人エマヌエレ・ピサーニョに貿易特権を与え、ポルトガル海軍総督に任じたのである。 その話が伝わると、ジェノヴァから多くの航海者がポルトガルに移住した。ジェノヴァ人にとって、ポルトガルは夢の国となったのである。結果、ポルトガルの航海術はますます向上し、海軍力も強化された。, ポルトガル王室が描いたビジョン「海洋貿易立国」が現実になろうとしていた。 やがて、利にさといジェノヴァの金融業者までが、ポルトガルに移住してきた。投資や融資で一儲けしようというのである。この頃、ジェノヴァ商人は高度なイスラム金融を習得していたが、それをポルトガルに持ち込んだのである。ポルトガルにとって、まさに、濡れ手に粟(ぬれてにあわ)だった。, 1385年、ポルトガルに革命が起こった。ジョアンが立ち、新しくアビス朝を興ったのである。新王ジョアン1世は「海洋貿易立国」をさらに加速させる。平和的な貿易にくわえ、軍事行動にうってでたのである。 1415年8月21日、ジョアン1世は3人の王子に命じて、北アフリカのセウタを占領させた。, セウタは、アフリカのモロッコにある歴史の古い町である。ジブラルタル海峡に面し、大西洋と地中海を結ぶ点にあり、古代より軍事の要衝であった。紀元前5世紀には、すでにカルタゴが町を築いていた。 ところで、ポルトガルは、なぜセウタを攻めたのか?この頃、セウタはイスラム教徒の支配地だったが、ポルトガルとイスラム商人の取引はうまくいっていた。わざわざ、戦争を仕掛けなくても、アフリカ貿易に支障はなかったのである。むしろ、アフリカ貿易を妨げる可能性もあった。アフリカ内陸部から沿岸部までの貿易も、イスラム商人が支配していたからである。沿岸部だけでなく、内陸部まで支配するには手間も暇もかかる。, なぜ、そこまでして、全支配をもくろんだのか? すべてを支配すれば、儲けを丸取りできる?もっともだ。だが、もっと説得力のある理由もある。「プレスター ジョン伝説」だ。12世紀以降、ヨーロッパで流布された「東方のキリスト教国」のことである。1096年、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還すべく、ヨーロッパ・キリスト教国は十字軍を編成した。この長躯の遠征は、200年も続いたが、戦果は一進一退、かんばしくなかった。, このような苦境を背景に、流布されたのが、「プレスター ジョン伝説」だった。東方に強力なキリスト教国があり、その君主プレスター ジョンと同盟すれば、イスラム教徒をはさみうちにできる。さらに、 「プレスター ジョンはイエス・キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫である」 というまことしやかなエピソードまでつけくわえられた。ヨーロッパ中の期待がかかったわけだが、問題は場所。アフリカ、中央アジア、インド ・・・ サッパリ、見当もつかなかった。, そんな中、ポルトガル王室が「プレスター ジョン王国」をアフリカ内陸部に求めたとしてもおかしくはない。とすれば、自分が同盟しようとする国の探索を、敵対するイスラム商人に任せるわけにはいかない。「プレスター ジョン王国」を本気で探すなら、アフリカ貿易を丸ごと支配するしかない。実際、ポルトガルは、セウタを前哨基地として、周辺のイスラム勢力を攻撃している。なにはともあれ、セウタ攻略が対イスラム戦略のターニングポイントになったことは間違いない。, セウタ攻略に参加した3王子の一人が、有名なエンリケ王子である。昔々の歴史の授業では、エンリケ王子はサグレス岬に航海研究所や航海学校を建設した大航海時代の大功労者、と教えられた。ところが今では、いささか誇張である、に訂正されている。とはいえ、大航海時代の功労者であることは確かで、今でも「エンリケ航海王子」の名で親しまれている。, だが、エンリケ航海王子の貢献は、大航海時代の闇の部分によっている。アフリカの奴隷貿易である。 1433年、ジョアン1世がこの世を去り、ジョアン2世が跡を継いだとき、エンリケ航海王子はアフリカ西海岸の航海権を得ている。彼は、占領したセウタを基地として、西アフリカの探検と貿易に尽力する。サハラ砂漠を行き来するイスラム商人に、織物、小麦、ガラスを売りつけ、かわりに、アフリカの砂金や象牙を買い、ポルトガル本国に持ち込んだのである。, 1445年、エンリケ航海王子は、西アフリカのアルギンに最初の商館を開設した。この頃から、貿易の中心は砂金から黒人奴隷に変わり、利益も急増した。それを目の当たりにしたジェノヴァの金融業者たちは、奴隷貿易に出資し、莫大な利益を得た。奴隷貿易は急拡大し、1450年から1500年の間に、15万人もの黒人奴隷が売買された。黒人奴隷はポルトガルに運ばれ、家内奴隷や農作業者として使役された。 後に、アフリカの黒人奴隷は、北アメリカや南アメリカの大規模農園に投入され、アメリカ奴隷制度を作り上げた。, 15世紀末から19世紀末の400年間で、アフリカから南北アメリカに送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人。この闇の奴隷貿易の創始者こそ、エンリケ航海王子だったのである。もちろん、どんな人間でも、罪があれば功もある。たとえば、「マデイラ ワイン」。, 1419年、ポルトガルの航海者ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコは、大西洋を航海中、偶然、マデイラ諸島に漂着した。マデイラ諸島は、北大西洋にある火山群島で、セウタから西方1100kmの位置にある。翌年には、エンリケ航海王子の指導のもと、ポルトガルからの植民が始まった。サトウキビが栽培され、砂糖が重要な輸出品となった。, ここで注目すべきは、栽培、精製、販売、資金調達をジェノヴァ商人が支援したことである。ジェノヴァ商人が、ポルトガルの海洋貿易事業に、いかに深く関わっていたかがわかる。17世紀後半になると、マデイラ諸島では、ブドウ栽培とワイン作りが始まり、砂糖をしのぐ産業になった。これが、有名な「マデイラ ワイン」である。, ワインは、ビールとならんで、古い歴史をもつ酒である。今では、世界中の温帯地方で生産されている。古くは、祭祀(さいし)に使われ、のちに、家庭の食卓にも上るようになった。ワインは、ブドウの果汁を酵母でアルコール発酵させた醸造酒である。アルコール度数は9~13度。ところが、アルコール度数19~20度という超弩級のワインも存在する。その名も「酒精強化ワイン」。醸造時に、ブランデーなどのアルコールを加え、度数を高めたものだ。, ブランデーは、ワインと同じブドウを原料とする蒸留酒で、アルコール度数は40~50度。蒸留酒とは、ワインのような醸造酒を加熱し、蒸留してアルコール濃度を高めたものである。安物ブランデーは飲めたものではないが、高級ブランデーはやみつきになる。口当たりがいいぶん、スルスル飲めるので、注意が必要だ。若い頃、あやうくアルコール依存症になるところだった。貧乏で、高価なブランデーがすぐに買えなくなったので、命は助かった。, 「酒精強化ワイン」はブランデーで濃度を高めたワインなので、その威圧的な命名も納得できる。強い酒で知られる日本酒でさえ、13~15度。お手軽なビールで4度強。一方、アルコール度数を高めると、良いこともある。酸化や腐敗を防ぎ、長期保存や長駆の輸送にも耐えられる点だ。また、ブランデーやウィスキーなら、栓をするのを忘れても、風味は落ちない。とはいえ、フタなしでも風味が変わらないのは、それだけエキスが高密度なわけで、そんなもの胃袋に入れて大丈夫?, ところで、酒精強化ワインには「世界三大酒精強化ワイン」なるものがある。スペインのシェリー、ポルトガルのポート ワイン、そして、マデイラ ワイン。つまり、マデイラ ワインは世界のトップブランドなのだ。それにくわえて、マデイラ ワインにはもう一つ特徴がある。加熱しながら熟成させるという、蒸留酒のような製法で、ワインというよりはブランデーに近い。, マデイラ ワインの製法は以下のとおり。まず、ブドウの果汁を発酵させ、その後、樽に入れ、倉庫で加熱する。昔は、倉庫の1階で火を焚いて、加熱したが、今は太陽熱を利用しているという。いずれにせよ、数ヶ月もの間、45度前後で暖めるので、管理が難しい。今なら、コンピュータ制御で何とでもなるが、昔は大変だっただろう。熱加減に失敗して、倉庫の樽が全部台無し、という事もあったのでは?ということで、妙にそそられるワインである。, そこで、マデイラ ワインを試してみることにした。行きつけの酒屋をはじめ、あちこち電話してみたが、どこにも置いてない。こういう時、地方都市は不便だ。そこで、最近オープンした複合型スーパーに行ってみた。オープンしたての大型店は、たいてい品揃えがいいからだ。予想が的中し、マデイラ ワインを発見!ラベルには、 「MADEIRA WINE ・・・」 間違いない。価格は2450円。さっそく、1本購入し、飲んでみた。, 芳醇で濃厚で、キャラメルを甘く焦がしたような独特の風味がある。ワインというよりは、口当たりのいいブランデーだ。ワイン特有のサッパリ感はないので、食事をしながら飲む酒ではない。食前酒、食後酒に向いている。だが、個人的には、つまみなしで、ストレートに飲む方が ・・・ これはヤバイ。 インターネットで「マデイラ ワイン」を検索すると、いろんな銘柄が出てくる。メジャーなところでは、1本6000円~2万円。昔の高級ブランデーやスコッチなみの価格だ。気軽に買える酒ではない。マデイラ ワインの生産者は、ほとんどが家族経営で、生産数に限りがあるからだという。ということで、こんな美味いワインが飲めるのも、エンリケ航海王子のおかげ、ということにしよう。, マデイラ諸島が発見された後も、大西洋では新しい島が次々と発見された。こうして、ポルトガル商船は、北欧から西アフリカまで進出したのである。イスラム商人は、東アジアの香辛料を地中海まで運び、ポルトガル商人は、北欧の魚介類、フランドル地方の毛織物、アフリカの砂金や象牙を地中海に持ち込んだ。ポルトガルは、地中海世界と大西洋沿岸のヨーロッパ諸国をつなぐ役割を果たしたのである。 この海洋貿易は、ポルトガルに巨万の富をもたらした。大西洋沿岸の港町は寄港地として栄え、首都リスボンは人口35万人に達した。当時、世界有数の大都市である。, これも、ポルトガル王室の国家ビジョン、エンリケ航海王子の功績だが、忘れてならないのはジェノヴァ商人。彼らは、航海術、農業技術、農園経営、資金調達、すべてにおいて、ポルトガル海上帝国をささえたのである。 一方、ジェノヴァ商人が手を貸したのはポルトガルだけではなかった。ポルトガルのライバルのスペイン、そして、コロンブスのアメリカ大陸発見にも大きく関与したのである。ジェノヴァ商人は大航海時代の隠れた大功労者だった。. All Rights Reserved. 【ホンシェルジュ】 大航海時代の先駆者といわれるポルトガル。種子島に鉄砲を伝えたり、宣教師ザビエルがやって来たりと、日本とも深い関わりがあります。この記事では、大航海時代を中心に、日本やスペインとの関係も含めたポルトガルの歴史をわかりやすく解説。 1400年代末期から1600年代中頃までは、一般に「大航海時代」と呼ばれており、実質的にこの二大強国の時代だったといえます。. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 大航海時代の用語解説 - 15~16世紀,ヨーロッパ人がインド航路航海やアメリカ大陸への到達 (いわゆる「発見」) をなした時代をいう。 15世紀後半,ポルトガルはアフリカ西海岸を探検し,ベルデ岬などを「発見」,1488年には b.ディアスが喜望峰に達した。 3つのポイント大航海時代とは大航海時代はなぜ始まったのかポルトガル大航海時代とは大航海時代とは15世期半ばから17世期半ばにヨーロッパ人によるインドやアメリカ大陸への大規模な公開が行われた時代。同時期にルネサンスや宗教改革も行われ中世を終わ 世界はポルトガルとスペインによって分割された。 その後、イギリス、フランス、オランダなども、植民地獲得の大航海時代に。 イギリスが産業革命に成功し、17世紀の覇者・スペインの無敵艦隊を破り、18世紀にイギリスは世界の覇権国家となりました。 大航海時代の出発点は、1414年にポルトガ ル人によって引き起こされたアフリカ最北部 西端のイスラムの要衝セウタの占拠である。 このセウタの占拠はなぜ起きたのか。それ を紐解くには先ず、ポルトガルの当時の時代 背景に遡らなければ説明することは難しい。 「1385 大航海時代と聞けば、ヨーロッパ人の壮大な海の大冒険っていうイメージで、なんだかワクワクしてきませんか?コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなどが、色々な島を探して航海したって、何となく分かっていてもそれがどういったものなんだろうって思いませんか?今回は、15~17 nowyear = now.getFullYear();
大航海時代概要 . 大航海時代の先駆者といわれるポルトガル。種子島に鉄砲を伝えたり、宣教師ザビエルがやって来たりと、日本とも深い関わりがあります。この記事では、大航海時代を中心に、日本やスペインとの関係も含めたポルトガルの歴史をわかりやすく解説。また後半ではおすすめの本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。, イベリア半島の西端にある共和制国家のポルトガル。大西洋上のアゾレス諸島とマデイラ諸島も領有しています。, 首都はリスボン。国土は南北に長く、北と東で接しているスペインとの国境線は1200キロメートル以上もあります。国土面積は日本のおよそ4分の1にあたる約9万2000平方キロメートルで、人口は約1000万人です。, 国民の大半がイベリア人やケルト人、ラテン人、ゲルマン人、ユダヤ人、ムーア人などの混血で、公用語はポルトガル語。また国民の約97%がカトリックの信者です。, ファティマという中心部にある都市は、1917年に起こった「聖母マリアの出現」という幻視によって、有名な巡礼地となりました。「発見のモニュメント」や「ジェロニモス修道院」など歴史ある観光名所も数多くあるほか、エッグタルトなどのスイーツを目当てに多くの観光客が訪れています。, 治安は良好で、テロ事件などの発生例もなく、外務省が発表している危険情報も特にありません。ただし日本人観光客に対するスリや置き引き、車上荒らし、マリファナの売買などの犯罪行為は頻繁に起こるので注意が必要です。, ポルトガルのあるイベリア半島へ人類が進出した時期は早く、旧石器時代前期の遺跡が発見されています。紀元前10世紀頃には北方からケルト人が移住し、原住民と混血してルシタニア人となりました。現在のポルトガルに相当する地域は、ルシタニアまたはルジタニアとも呼ばれますが、これはルシタニア人が住んでいる土地という意味があります。, 紀元前8世紀頃になるとフェニキア人やギリシア人が移住し、造船技術やワインを持ち込んで、南部に植民都市アルガルヴェが築かれました。ローマとカルタゴとの間に「ポエニ戦争」が起こると、イベリア半島はカルタゴの軍事拠点となり、敗れたカルタゴはイベリア半島の支配権を失います。, 一方のローマは紀元前155年に「ルシタニア戦争」を起こし、およそ100年間にわたる戦いのすえ、紀元前19年に征服。イベリア半島はローマの支配下に組み込まれることになりました。, 5世紀頃にローマの力が衰えると、イベリア半島にゲルマン人が侵入し、スエビ族によるガリシア王国、西ゴート族による西ゴート王国などが栄えます。その後715年までに、アフリカから侵入してきたイスラム勢力によってほぼ全土が征服されました。, わずかに残ったイベリア半島最北部には西ゴート系のアストゥリアス王国が建国され、イスラム勢力に対するレコンキスタを続けます。914年にレオンへ遷都し、国名もレオン王国と変更しました。, 一方で、756年にイスラム勢力内の内乱を制したアブド・アッラフマーンが興した後ウマイヤ朝は、キリスト教との戦いや反乱で情勢が悪化し、1031年に滅亡。その後イベリア半島では小国家が乱立するも、イスラム勢力は弱体化していきました。, 1064年には、イスラム教とキリスト教が争っていた土地コインブラをレオン王国が征服。1096年には国王の娘婿であるフランス人のアンリ・ド・ブルゴーニュの領地となります。, 1112年にアンリが亡くなると、跡を継いだ息子のアフォンソ・エンリケスは、カスティーリャ=レオン連合王国と対立。1128年の「サン・マメデの戦い」で母親の後ろ盾となっていたガリシア地方の有力貴族に勝利し、レコンキスタを推進して勢力を拡大していきました。名目上はカスティーリャ=レオン連合王国に臣従を誓いつつも、実質的には独立国として振る舞うようになります。, 1139年の「オーリッケの戦い」では、イスラム教のムラービト朝に大勝。王を自称し、カスティーリャ=レオン連合王国を刺激していきました。ちなみにポルトガルに伝わる神話では、この時のアフォンソはイエス・キリストから勝利の予言を授けられたといわれています。, 1143年、王を自称するアフォンソは、カスティーリャ=レオン連合王国と「サモーラ条約」を締結し、王位を承認させ、ブルゴーニュ朝ポルトガル王国を建国。ローマ教皇への臣従、サヴォイア伯家やフランドル伯家との婚姻関係を使って勢力を広げ、1147年にはリスボンを征服。1179年にはローマ教皇庁によって正式にポルトガル王位が承認されました。, 第3代国王であるアフォンソ3世の時代には、最南端にあるアルガルヴェ地方を征服。レコンキスタを完了させます。第6代国王ディニス1世の時代にはカスティーリャ王国との間に「アルカニーゼス条約」を結び、国境線を確立。現在でもポルトガルとスペインを隔てる国境線で、ヨーロッパ最古の国境線でもあります。この時期にはイギリスやフランスを相手に交易も盛んにおこなわれ、大いに栄えました。, ディニス1世のもとで最盛期を迎えたポルトガルですが、1348年にペストの大流行に襲われ、人口の約3分の1を失うことになります。人口の減少は農業の担い手の減少を意味し、国は深刻な歳入不足に陥りました。, 1383年、このような状況で第9代国王のフェルナンド1世が崩御。息子がおらず、唯一の子どもである王女がカスティーリャ王と結婚したため、カスティーリャ王国に併合される危機に陥ります。1384年にはリスボンが包囲されますが、フェルナンド1世の異母弟ドン・ジョアンが活躍し、防衛に成功しました。, ドン・ジョアンは新たなポルトガル王に推戴され、1385年にジョアン1世として即位。アヴィス王朝が成立します。, 1415年には、ポルトガルがモロッコの港町セウタを占領し、アフリカに進出。大航海時代の幕開けです。セウタの占領を指揮したドゥアルテ、ドン・ペドロ、ドン・エンリケらはいずれもジョアン1世の息子でした。, 特にドン・エンリケは別名をエンリケ航海王子といい、大航海時代の初期における重要人物と評されています。探検家や航海者を援助し、マデイラ諸島やアゾレス諸島の発見など、偉業を果たしました。, エンリケ航海王子の死後もポルトガルの海洋進出は進み、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカッタに、1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達します。, その一方で1492年にグラナダを攻略し、レコンキスタを完了させたスペインも海洋進出に乗り出していて、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達していました。, ポルトガルとスペインは、新たに発見した領土をめぐる紛争を回避するため、1494年に、新世界の領土を子午線に沿って東西に分割する「トルデシリャス条約」を締結します。その後ポルトガルは東へ進出を盛んに進め、インドのゴア、マラッカ、モルッカ諸島のテルナテ島、イエメン沖のソコトラ島、ペルシア湾のホルムズなど各地に拠点を構築しました。, さらにアジアへも進出し、1541年には日本の豊後国神宮寺浦に漂着。1543年には種子島に鉄砲をもたらし、1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れ、キリスト教の布教活動に従事します。戦国時代の日本の様子について記した『日本史』の著者である宣教師のルイス・フロイスも、ポルトガル出身です。中国の明王朝から租借したマカオを拠点とする「南蛮貿易」を展開し、銀などと引き換えに、多くの製品や文化が日本にもたらされました。, 16世紀後半になると、ポルトガルは「海上帝国」といわれるほど世界各地に植民地を拡大。しかし広大な領土を維持することは負担でもあり、スペインやイギリス、オランダなどと争うなかで、衰退していきます。, 1580年には国王のエンリケ1世が後継者を残さないまま亡くなり、アヴィス朝が断絶。スペインのフェリペ2世によって併合され、ともにハプスブルク家の王を戴く同君連合となりました。, この間、ブラジルにはオランダが進出し、オランダ領ブラジルが成立。ポルトガルは1640年に起きた反乱がきっかけの「ポルトガル王政復古戦争」で独立を果たしますが、ブラジルにオランダが進出する状況を危惧して、1646年にブラジルを公国に。ポルトガル王がブラジル公を兼ねるようになります。, 1648年と1649年の「第一次・第二次グアララペスの戦い」でオランダに勝利。1661年に締結された「ハーグ講和条約」でオランダ領ブラジルを獲得しました。ブラジルの主要生産品は染料として用いられていた「パウ・ブラジル」という木で、パウ・ブラジルが枯渇した後はサトウキビ栽培が主な産業になりました。, 1789年に起こった「ナポレオン戦争」の後、イベリア半島のポルトガル本土はイギリスの占領下に。王族は植民地にしていたブラジルへ逃れ、1808年から1821年にかけてはブラジルのリオデジャネイロがポルトガルの首都となるなど、重要な土地となります。, 1820年、ポルトガル北部の港湾都市ポルトで「自由主義革命」が起こります。イギリス軍が撤退し、ブラジルからジョアン6世が帰還。憲法が制定され、ポルトガルは立憲君主制に移行しました。, 「自由主義革命」はブラジルにも波及し、独立運動に発展。「ブラジル独立戦争」の結果、ポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝とするブラジル帝国が独立しました。, 最大の植民地だったブラジルを失ったことは、ポルトガルの経済に大打撃を与え、国内の政情が混乱。やがて自由主義と保守主義の対立を引き起こし、王位継承問題から「ポルトガル内戦」に発展していきました。, 内戦は自由主義の勝利に終わり、ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王に即位。ブラジル帝国憲法をモデルとする体制が構築されます。大土地所有制度が拡充され、ブルジョワジーと零細農民の格差が拡大。工業化が進展しなかったため農業の生産性も向上せず、国内市場も外国産農産物に席巻されるようになります。, 打開策としてアフリカへの進出を狙い、「バラ色地図構想」を打ち出すものの、イギリスの圧力に敗れ、ザンビア、マラウィ、ジンバブエなどを失う結果になりました。, これに対して、共和主義者らは王政批判を展開。1910年に反乱を起こします。国王マヌエル2世はイギリスに亡命し、ポルトガルは共和制へと移行しました。, 「第一次世界大戦」ではドイツ帝国に対して宣戦を布告するものの、新たな領土を得ることはできず、食糧危機などの社会不安をもたらす結果に。戦中から戦後にかけてはクーデターもくり返し起こり、1926年に軍事政権が成立して第一共和政は崩壊しました。, 軍事政権下で財務大臣を務めたアントニオ・サラザールは、混乱していた経済の再建に成功。世界恐慌も乗り切ると国民の支持を受けて1932年に首相に就任します。1933年には新憲法を制定し、独裁的な「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」を確立。ドイツのナチス党やイタリアのファシスト党、スペインのフランシスコ・フランコ総統らに接近しました。, 「第二次世界大戦」では中立を維持し、戦後は反共政策を推進。NATOや国連にも加盟して西側諸国との友好関係を構築するとともに、秘密警察を用いて国内の反対派を抑圧するなど、長期独裁体制を構築していきます。, 一方で海外の植民地では、アンゴラやギニアビサウ、モザンビークなどで独立戦争が相次ぎ、戦費の負担が重くのしかかる状態。国民の不満が徐々に高まっていきました。, さらにサラザールが、1968年に頭部を強打し、一時意識不明の重体に。2ヶ月後に意識を取り戻したものの、すでに政権は後継のマルセロ・カエターノ首相に移っていました。しかし周囲の者たちはその事実を本人には知らせず、サラザールは亡くなるまでの約2年間、何の効力もない命令を出し、用意された偽の新聞を読んでいたそうです。, 一方で、エスタド・ノヴォを継承して戦争を継続しようとしたマルセロ・カエターノ首相には、国民から不満の声が挙がり、1973年にはポルトガル領ギニアで勤務していた将校を中心とする「大尉運動」が結成され、翌年には全軍に拡大。「国軍運動」となります。, 1974年4月に国軍運動が革命を起こし、これを民衆が支持したため、エスタド・ノヴォは無血で倒されました。カーネーションがシンボルだったことから、「カーネーション革命」と呼ばれています。, 1999年にはポルトガル最後の植民地であったマカオが中国に返還され、長い大航海時代が終わりました。, 本書は、ポルトガル近世史とブラジル植民史を専門とする作者が、ポルトガルの建国前から現代までの歴史をわかりやすく解説した作品です。, ヨーロッパから見たら、地の果てともいえる日本。そんな日本に最初にたどり着いたのがポルトガル人でした。本書を読めば、常にスペインの脅威に晒されてきたポルトガルを紐解きながら、彼らがなぜ海に乗り出し、大航海時代の先駆者となったのかがわかるでしょう。, 文章も易しいため、事前知識がなくても大丈夫。ポルトガルの歴史を知りたいと思ったらまず読みたい一冊です。, イベリア半島内で隣りあうポルトガルとスペイン。そもそもポルトガルはスペインから独立し、併合や再独立など複雑な関係を構築してきました。, 本書は、そんな両国が紡いできた歴史を紐解いていく一冊です。地図や写真、絵など豊富な資料を駆使しているのが特徴。また参考文献も詳しくまとめられているので、より深く学びたい時にも役立つでしょう。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 5分でわかるサウジアラビアの歴史!宗教、女性の人権、石油産業などをわかりやすく解説, 5分でわかるクウェートの歴史!宗教、石油問題、イラクのクウェート侵攻などを簡単に解説. 大航海時代の歴史をわかりやすく解説していきます。新世界と呼ばれる未開の地域を発見して開拓していった、世界史において重要な時代について見ていきましょう。現在の世界には、ヨーロッパ文化の影響を受けた地域が数多く存在します。例えば、ヨーロッパから ポルトガルが大航海時代を先行した理由は3つある。 王室が海洋貿易を主導 したこと、ジェノヴァ商人が参加したこと、地理に恵まれたことである。 スペインとポルトガルはなぜ、北米より南米を開拓したのですか?。イギリスはなぜ北米にしたのですか?。北米のメリットですが、当初移民に成功したのは本国の抑圧を逃れようとしたピューリタンです(1607年)。その後の移民の実態は多様 帆船「必要は発明の母」は、大航海時代でも生きていた。ヨーロッパとアフリカと地中海を結ぶ貿易で、巨万の富を得たポルトガル帝国。そんな彼らにも、引け目はあった。一見、壮大にみえる航海も、じつは、陸に沿ってコソコソ進む沿岸航 … 続きを読む 大航海時代Ⅵ~帆船と大砲~ Try IT(トライイット)のなぜ海に出る?そしてなぜ海に出られる?の映像授業ページです。Try IT(トライイット)は、実力派講師陣による永久0円の映像授業サービスです。更に、スマホを振る(トライイットする)ことにより「わからない」をなくすことが出来ます。 大航海時代とは、15世紀末から17世紀の中頃、ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカ、アメリカ大陸へとつながる新たな航路を開拓した時代のことです。 そのはじまりは、ポルトガルとスペイン。 当時ヨーロッパで需要が高かったアジアの香辛料をオスマン帝国の支配が及んでいた地中海経由とは別のルートを開拓し、直接仕入れようとしました。 ポルトガルの歴史は現在のポルトガル共和国の領域で展開した歴史である。 古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けた。 レコンキスタの進行した、12世紀にポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。 '). 大航海時代を開始したポルトガルとスペインは、戦国時代の日本にとって危険な国でした。日本はこの二国、とくにポルトガルの脅威にさらされていました。織田信長や豊臣秀吉…(2020年8月1日 6 … ヨーロッパが中世から近代へと移行する転換点の一つは,15世紀後半に本格化する大航海時代にあった。【1453】年に【ビザンティン帝国】を滅ぼしたオスマン帝国は,地中海東部を軍事的・政治的に制圧しつつあり,経済面でも南アジアとの貿易ルートを独占する勢いであった。 now = new Date();
キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。 これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがも …
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