国際連合はアメリカ大統領のフランクリン=ルーズベルトにより構想され、第二次世界大戦中の1945年6月に国際連合憲章の採択をもって成立。各国の批准により、同年10月に正式に発足しました。国際連盟の解散は1946年なので、国際連合と国際連盟は一時期併存していたことになります。 えり 「ポツダム宣言、どんな内容だったか覚えていますか?」 詩乃 「確か、日本に無条件降伏を求めたんだったよね。」 えり 「そうだったね� 第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、旧字体: 聯合國 、英: Allies または英: United Nations (現在の国際連合と同名))とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。 一般的に連合国共同宣言に署名した国などが該当する。. 大政翼賛会結成. 第二次世界大戦対日処理連合国首脳会談(主要4会談年代順) A[ゴロ]書いてやるポン(カイロ会談・テヘラン会談・ヤルタ会談・ポツダム会談)[句意]「書いてや… 大戦中4会談の覚え方 | 東海林直人のゴロテマ日本史ブログ. 第二次世界大戦では1941年、ドイツ軍の侵攻により消滅。第二次大戦後の1945年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を建国したが、1991年から分離独立が始まり、2006年に消滅した。 ユーゴスラヴィア(略称ユーゴ)は、その前身セルブ=クロアート=スロヴェーン王国をふくめても、1918年からナチス=ドイツによる占領期をふくめ、1991年までの70 当時は、第一次世界大戦で連合国が勝利したことにより民主主義の勝利といった見方やロシア革命、国際連盟の結成などがあり、世界的にもデモクラシー的風潮が広まってきていたんですね。日本でも民主主義的風潮が吹き始めていた時期でした。 だいにじせかいたいせんかのしほうせいど【第二次世界大戦下の司法制度】 : 司法制度/(四), World War II was a vast and complex conflict, involving a number of separate but, 12. 20世紀には,世界を巻き込んだ大戦が二度も起こり,特に第二次世界大戦中においては,特定の人種の迫害,大量虐殺など,人権侵害,人権抑圧が横行しました。このような経験から,人権問題は国際社会全体にかかわる問題であり,人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になってきました。 この回答にコメントする. 枢軸国…日本 ドイツ イタリアなど VS 連合国…イギリス フランス ソ連 アメリカなど . テレビ放送開始. 四国連合艦隊下関砲撃 . です。 ※日本 ドイツ イタリアは「日独伊三国同盟」を結んでいたので、混同しないように注意してください。 2. 朝鮮戦争. テレビ放送開始. サンフランシスコ平和条約締結. ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。, 第一次世界大戦につぐ二度目の世界戦争。日本・ドイツ・イタリアなど枢軸諸国の侵略によって始まり、これに対抗して結成された反ファシズム連合との間で一九四五年(昭和二十)まで戦われた戦争。地域的にはアジア・太平洋地域の戦争と、ヨーロッパ・北アフリカ・大西洋地域の戦争の複合した戦争であり、前者に視点をおけば大戦の開始年代は満洲事変、日中戦争の始まった一九三一年、一九三七年ともいえ、後者を重く見れば一九三九年に大戦が開始されたという通説が成立する。, 満洲事変は日本国内の軍部ファシズム運動と密接に関連していたが、やがて一九三七年には全面的な日中戦争に発展した。戦争は華北から華南にまで拡大したが、抗日民族統一戦線に結集した中国の民族的抗戦の発展により日本の軍事的勝利の道はゆきづまった。このころから日本の支配層は独伊との枢軸を強化して前途を打開しようとしたので、大戦のアジアにおける起源はヨーロッパの戦争と結びつくようになった。大戦のヨーロッパにおける起源の一つは、一九三五年十月三日に始まるイタリアのエチオピア侵略である。翌年イタリアはエチオピアを併合(五月九日)するとともにスペイン内戦に積極的に介入し、さらに三九年四月七日にはアルバニアを併合するなど、ムッソリーニのめざす「ローマ地中海帝国の復活」を目標に侵略を拡大した。ドイツでも大恐慌に伴う深刻な危機のなかで三三年一月三十日ヒトラー政権が成立、三五年三月十六日には再軍備を宣言、翌年三月七日にはラインラント非武装地帯に進駐したので、第一次世界大戦後のベルサイユ体制は完全にくずれた。この年十月独伊の間に了解が成立して、いわゆるベルリン・ローマ枢軸が生まれた。同年十一月二十五日ドイツは日本と防共協定を結び、翌三七年十一月六日イタリアもこれに加盟したので枢軸は東京にまで延長された。, 通説ではヒトラーの戦争目的は、ソ連を含むドイツの東方の地域に一大植民帝国を樹立し、ドイツ民族の生存に不可欠な「生活圏」Lebensraumを獲得するにあった。ドイツの東進は三八年三月十三日のオーストリア併合に始まり、ついでチェコスロバキアに対し領土割譲の要求をつきつけた。チェコはフランス・ソ連と相互援助条約を結んでいたので、ドイツの東進は世界戦争の危機を誘発するものとなった。この間英仏はドイツに妥協的な宥和政策に傾きつつあったが、三八年九月二十九―三十日には、イタリアを加えてドイツとの間にミュンヘン会談を開き、ドイツの要求したチェコのズデーテン地方をドイツに与えることに同意して、戦争の危機を一時回避した。しかし三九年三月になると、ドイツはチェコの残りを解体し大部分の領土を併合し、さらに同月二十一日ポーランドに対し領土割譲を要求したので再び国際関係は緊張した。この危機に英仏は宥和政策を捨てポーランドの共同防衛にあたることを宣言したが、ポーランドの共同防衛のためにはポーランドと国境を接するソ連の参加が不可欠であった。そのためソ連との間に具体的な軍事とりきめを結ぶ交渉が始まったが、英仏の態度が不明確であったので、ソ連は英仏の意図がソ連のみをドイツに当たらせることにあるのではないかと疑うようになった。ミュンヘン会談以来のソ連の英仏に対する不信は、この段階において急速に独ソの接近をまねいたと思われる。八月二十三日には、世界の意表をついて独ソ不可侵条約が成立し、ソ連は自国の国境の安全を計ることに専念するに至った。ドイツのポーランド攻撃開始はその一週間後の九月一日であり、三日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をしたので、ついに, ドイツの電撃戦によりポーランドは数週間で壊滅したが、その後翌年春まで戦線に目立った動きはなく、「奇妙な戦争」とよばれる状態が続いた。その間ソ連の動きのみ活溌で、ドイツの進撃に呼応してポーランドの東半分を占領したほか、フィンランド・ルーマニアから一部の領土を獲得し、エストニア・ラトビアにも駐兵権を得て西方における防衛態勢を強化した。一九四〇年四月九日ドイツは突如行動をおこしデンマーク・ノルウェーに侵入、ついで五月十日にはオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵入、これら中立国を占領して対仏攻撃の態勢を整えた。三十万をこす英仏軍の主力はダンケルクに追いつめられ英本土に退却した。六月、フランスに対する総攻撃により十四日にはパリが陥落し、二十二日にはフランスは正式に降伏した。イタリアはその直前に参戦(六月十日対英・仏宣戦布告)したので、枢軸は西欧を制覇した観があった。ヒトラーはその後英本土に対する爆撃を強化する一方、ひそかに対ソ戦準備を整えた。九月二十七日には、日独伊三国同盟を結び、翌月にはルーマニアを占領、バルカンに進出し、四一年四月にはユーゴスラビア(十七日)・ギリシャ(二十三日)も枢軸軍により占領された。同月十三日ソ連は日ソ中立条約を結んで背後を固めた。フランス降伏後重要となったのはアメリカの役割であった。ドイツの対英攻撃が成功すればナチの脅威は大西洋をこえてアメリカの勢力範囲である西半球に及ぶことは明らかであった。日本が三国同盟によってアメリカを牽制しつつ武力南進を行う構えを示したこともアメリカにとって脅威であった。このような考慮からルーズベルト大統領は四〇年九月にはイギリスにドイツのUボートに対抗しうる駆逐艦五十隻を与えたが、翌四一年三月になると、ファシズム諸国とたたかう国々に武器を事実上無償供与することを規定した武器貸与法を成立させ(十一日)、すすんで「民主主義の兵器廠」となった。四一年六月二十二日、ドイツ軍はソ連国境になだれこんだ。そして同年秋にはモスクワ・レニングラードの前面にせまったが、十二月にはソ連軍もようやく反撃に転じたので、ドイツ軍の進撃は食いとめられた。ソ連は産業施設の多くを後方にうつして抗戦体制を整え長期戦にそなえた。この間イギリスはソ連と単独不講和・相互援助を約した同盟を結び(七月十二日)、アメリカもソ連に武器援助法を適用したので(十月一日)、戦争はファシズム諸国と反ファシズム連合との戦争という性格を強めた。八月十四日にはルーズベルトとチャーチル英首相によって大西洋憲章が発表され、ナチ打倒の目的と戦後の世界機構の構想などに関する共同の目的が明らかにされた。独ソ戦が始まると日本は南部仏印進駐を行い(七月二十八日)、武力南進の構えをいっそう強く示した。アメリカは在米日本資産の凍結(七月二十六日)と石油の対日輸出禁止(八月一日)でこれに応じたので日米対立はいよいよ険悪となり、戦争は太平洋にも拡大する傾向を強めた。四一年十二月八日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃するとアメリカは日本のみならず独伊にも宣戦して交戦国の一員となった。一九四二年一月一日には二十六の連合国によって連合国宣言が出され、大西洋憲章を骨子とする共通の戦争目的が発表され、正式に反ファシズム連合が成立した。連合国宣言では連合国の筆頭に英・米・中・ソの国名が示されて四大国の指導的役割が明示されたが、このころには枢軸諸国の占領地域のほとんどすべてで民衆レベルの抵抗運動が発展した。, 太平洋戦争が始まると、日本軍は東南アジアにも戦線を拡大したが、一九四二年六月五―七日ミッドウェー海戦で大敗し海上航空勢力に重大な打撃を受けた。この年後半から世界的に連合国の反攻が始まった。太平洋では日本軍のガダルカナル撤退(四三年二月)が転機となったが、ヨーロッパでも同じ四三年二月、スターリングラードでドイツの大軍が敗れたことが転機となって、ソ連軍が反撃に転じた。この間ソ連は英米に対してもっとも切実な要求として、北フランスに連合軍が上陸して「第二戦線」を開設することを求めたが、一九四二年十一月に実施されたのは、英米連合軍による北アフリカ上陸作戦であった。一九四三年五月、北アフリカの枢軸軍は降伏したが、これに先立って同年一月十四日から開かれたカサブランカ会談で、英米の首脳は枢軸諸国に無条件降伏を要求することとともに次の作戦としてシチリア上陸作戦を決定したので、またもや第二戦線の開設は延期された。スターリンは六月十日コミンテルンを解散して英米の誤解をとくことにつとめた。七月連合軍はシチリア、ついでイタリア本土に上陸するとまもなく、ムッソリーニは罷免され、九月八日にはイタリアは無条件降伏した。, 一九四三年十一月二十二―二十六日カイロ会談が開かれ、英米華三国によって対日処置が決定されたが、その直後にイランのテヘランで英米の首脳にソ連のスターリン首相を加えて、初の三大国巨頭会談が開かれ(十一月二十八日―十二月一日)、第二戦線問題に結着がつけられた。その結果、四四年六月六日に英米軍を主力にノルマンディー上陸作戦が行われ、八月二十五日にはパリが解放された。この夏から秋にかけて、ソ連軍はソ連全土を解放し、南東ヨーロッパの国々や、フィンランドなどがつぎつぎに枢軸の支配を離れた。一九四五年二月四―十一日には米英ソの三巨頭によりヤルタ会談が開かれ、敗戦国や、枢軸の支配から解放された国々に対する政策が調整されるとともに、戦後の安全保障機構として国際連合を設置するための具体策が決定された。また対独戦終了三ヵ月以内にソ連が対日参戦することを約した秘密協定も成立した。この年ベルリンへの進撃が東西から始まり、四月三十日ヒトラーはソ連軍の侵入したベルリンで自殺し、五月八日にはドイツは無条件降伏した。日本はこのころまでに太平洋上の拠点をつぎつぎに失っていたが、四五年にはいると、東京都に属する硫黄島(二月十九日)や、沖縄県(三月二十六日から)にも米軍が上陸した。前年来からB29による本土空襲も盛んになっていたが、八月にはいると広島(六日)・長崎(九日)に原子爆弾が投下され、九日にはソ連も対日参戦した。これより先、七月十七日―八月二日トルーマン米大統領・チャーチル(のちアトリー)英首相・スターリンによる巨頭会談がポツダムで行われ、ドイツ処理問題を検討する一方、日本に無条件降伏を勧告し、連合国の最終条件を明らかにしたポツダム宣言が発表された(七月二十六日)。日本政府がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたのは八月十五日であり、, 1. : Das Deutche Reich und der Zweite Weltkrieg, 10 Bde., 1979~(注3) ▽日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』7巻・別巻1(1962~1963・朝日新聞社)▽歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~1973・青木書店) ▽家永三郎著『太平洋戦争』(1968・岩波書店), 世界経済恐慌後ファシズム政治体制を確立した日・独・伊などの枢軸国と、米・英・仏・ソなどの連合国との間で行なわれた世界的規模の戦争。一九三九年九月、ドイツのポーランド侵入によって開始され、英・仏の対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。はじめ、枢軸国が優勢であったが、一九四二年頃から連合国側の総反撃が始まり、一九四三年二月の日本軍のガダルカナル撤退、スターリングラード(ボルゴグラード)におけるドイツ軍の壊滅で枢軸国側の敗色が濃厚となり、同年九月にイタリア、一九四五年五月にはドイツが降伏。そして日本もソ連の対日参戦とアメリカの広島・長崎への原子爆弾投下によって同年八月一五日に降伏、大戦は終結した。第二次大戦。, *最新百科社会語辞典〔1932〕「だいにじせかいたいせん 第二次世界大戦〔政〕国際経済が確立されてゐる現在では、帝国主義戦争は避け得られないものとされてゐる。〈略〉この近き将来に起るべく予想されてゐる世界大戦を過般の第一次世界大戦に対して第二次世界大戦といふのである」. ポッダム宣言受託. 3.1.1 一般には第二次世界大戦時の日・独・伊などを指す; 3.2 「枢軸国」と戦い勝利したのが「連合国」 4 「枢軸」の英語訳. ホーム ピグ アメブロ. (2), United States were allies in World War II.カナダと米国は, n. アムチトカ島:米国 Alaska 州南西沖,Aleutian 列島西部の島;, アメリカ優先委員会:米国の政治的圧力団体;1940-41年にヨーロッパファシズムに敵対しないこと,, the Lord and pass the Ammunition.神をたたえ弾をよこせ(▼, n. アンチオ:イタリアの Rome 南郊,Tyrrhenian Sea に臨む都市;, Winston Churchill との大西洋上会談の結果1941年に出された共同宣言;, axisローマ=ベルリン枢軸(1936年イタリアとドイツが結んだ).10 ((the A-)) 枢軸国:, 「第二次世界大戦」の情報だけではなく、「第二次世界大戦」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。, 1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。1931年(昭和6)の満州事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要な一部として含む。, 日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し, 国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiの通称。略称はNSDAP。ナチNazi(単数および形容詞)またはナチス(複数)は、ドイツの政敵や欧米の反ヒトラー派がこの党に与えた卑称である。日本では公式の略称としては単数、複数を問わずナチスとよんでいた。, 第一次世界大戦(以下、大戦と略記する)は、1914年から1918年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。主要な強国のほとんどすべてを巻き込んでおよそ4年半の長期間に及び、しかも複雑多岐にわたる問題を当初からはらんで行われた戦争の性格を考えて、本項では、以下の構成をとった。, 第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの, 中央アジアから移住したトルコ族によって建国され,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン,黒海北岸,およびカフカス南部を支配したイスラム国家。1299-1922年。正称アーリ・オスマンĀl-ı Osman(〈オスマンの家〉の意), 18世紀初めから1917年のロシア革命までのロシア。帝政ロシアともいう。正式には1721年にピョートル1世(大帝)が皇帝(インペラートルimperator)の称号をとってから,1917年の二月革命でニコライ2世が退位するまでをいう, ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962-1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871-1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933-45)もこれに次ぐものとし, 20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み, 日露戦争前から第一次世界大戦後のワシントン会議直後まで日英間に結ばれていた同盟条約。〔由来〕明治三十一年(一八九八)三月十七日イギリス植民相チェンバレンは、ロンドン駐在の日本公使加藤高明を招き、ロシアの進出に直面する極東の国際情勢について, ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。. 湯川秀樹ノーベル賞. 日独伊三国同盟締結 . 国際連合発足. 三国協商(さんごくきょうしょう、英語: Triple Entente 、フランス語: Triple-Entente 、ロシア語: Антанта )は、19世紀末から20世紀初頭においてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉 。 英仏露協商ともいい、独墺伊同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。 日本国憲法公布. of the Army, Washington, 1947 ff.(現在99巻に上る)▽The Army Air Forces in World War , U. S. Air Force, USAF Historical Division, 7 vols., Chicago, 1948~1958▽United States Strategic Bombing Survey Reports(319 Parts), Washington, 1945~1947▽Samuel Eliot Morison : History of United States Naval Operations in World War , 15 vols., Boston, 1947~1962▽History of the Second World War, United Kingdom Military Histories, United Kingdom Civil Series, United Kingdom Medical Series, London, 1952 ff.(現在80巻に上る)▽航空自衛隊幹部学校訳・編『アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告』全26巻(1959~1961・航空自衛隊幹部学校)▽防衛庁防衛研究所戦史部編『大東亜戦争公刊戦史叢書』全102巻(1966~1980・朝雲新聞社)(注2) ▽История великой отечественной войны советского союза/Istoriya velikoy otechestvennoy voynsovetskogo soyuza 1941~1945, 1960(川内唯彦訳『第二次世界大戦史』全10巻・1963~1966・弘文堂)▽W. 芸能人ブログ 人気ブログ. 太平洋戦争. 財閥解体. この戦争は 1945 年に終戦を迎えるまで多くの死者・負傷者を出し、人類史上最大のものとなりました。. 薩長同盟成立 ... 第二次世界大戦. 第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの だいきょうこうからだいにじせかいたいせんへ【大恐慌から第二次世界大戦へ】 : アメリカ合衆国, 日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始, 、大戦は終結した。第二次大戦。*最新百科社会語辞典〔1932〕「だいにじせかいたいせん, 6. Schumann / G.Hass (hrsg.) 3.1 「枢軸国」とは「親密、かつ共同行動をとる国」を意味する. 第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、旧字体:聯合國、英: Alliesまたは英: United Nations(現在の国際連合と同名))とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。一般的に連合国共同宣言に署名した国などが該当する。, 第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ドイツ国によるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月8日の日本によるマレー作戦及び真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、オーストラリアを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦争状態にあったが、ソビエト連邦が対日戦に参戦したのは1945年8月のことである。, ドイツやその他の枢軸国から攻撃を受けるなどし、領域を喪失した政府が亡命政府となり、戦争に参加している。戦後これらの亡命政府の多くは帰国したが、ソ連の影響力が強い地域の亡命政府は復帰することができない例や、戦後まもなく亡命政府の継承政権が打倒されることもあった。一方でユーゴスラビアのパルチザンなど交戦当時は国家を代表する存在ではなかったが、国家を代表する存在として連合国の政府として承認される事例もあった。, 連合国は戦後処理問題などで比較的緊密な連絡を取った。現在の国際連合 (United Nations) は、戦争中の連合国協議によって生まれた国際機関である。日本では国際連合と訳されているが、原語に忠実に考えれば連合国と訳すのが妥当である。, 現国際連合は連合国諸国が原加盟国となっている。特に中心となったアメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランス・中華民国は、国際連合憲章によって安全保障理事会における「常任理事国」の地位が与えられ、拒否権などの特権を有するなど、国際社会において強い影響を持つこととなった。, 本来英語では第一次世界大戦の連合国と同じく「Allies」(連合国)と呼んだが、1941年12月にフランクリン・ルーズベルトが「United Nations」(国家連合、合衆国)と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言以来この呼び名が広まった。, 第一次世界大戦後、イギリス、フランス、大日本帝国、アメリカ、イタリア王国の五大国を代表とする戦勝国は新たな安全保障体制を構築しようと国家間での連携を強めていった。大規模な国家連携の試みである国際連盟が設立されたのもこの一環であった。またドイツを警戒するフランスはドイツの周辺国との連携を強め、チェコスロバキア・ルーマニア王国・ユーゴスラビア王国の小協商への接近や、1921年にはポーランドとの同盟(en)を結んだ。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの連携が強められる事となった。一方でアメリカ合衆国はモンロー主義が台頭し、孤立主義の風潮が高まったため国際連盟にも加入しなかった。, 1933年、ドイツでナチ党が権力を掌握して再軍備を始め、国際連盟の脱退などロカルノ体制を破壊する動きを見せた。1935年、フランスはドイツを警戒してソ連と仏ソ相互援助条約を締結したが、ドイツはこれを口実としてラインラントに進駐し、ロカルノ体制は事実上崩壊した。しかしその他の周辺国はこれに宥和政策で答えた。イギリスは英独海軍協定を締結してドイツ再軍備を容認し、ポーランドもドイツ・ポーランド不可侵条約を締結して対チェコスロバキア政策などで共同歩調をとった。, またアジアでは、1931年に勃発した満州事変とその後の1933年の日本の国連脱退以降、中国大陸での利権をめぐり日本とイギリスやアメリカとの間で緊張が増した。これを受けて日本とドイツ、イタリアが急速に接近し、1936年には日独間で防共協定を締結、さらに1937年には日独伊防共協定に発展したことで、これらの3国は事実上の同盟関係を結ぶに至る。さらに同年に日本と中華民国との間で日中戦争が勃発したが、アメリカやイギリスは中華民国を全面的に支持し、これ以降日本とイギリス、アメリカなどとの間は修復不可能なほど険悪になっていた。, 1939年3月にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコスロバキアを併合すると、ポーランド回廊やダンツィヒ自由都市といった係争地を抱えるポーランドとドイツの対立は明らかになった。イギリスは従来からの宥和政策から転じ、3月31日にはポーランドに対する軍事的脅威が迫った際には参戦すると声明し、8月15日にはイギリス・ポーランド軍事条約(en)が結ばれた。また、フランスも5月15日に新たな協定を結んで関係を強化した。, 一方で英仏とソ連との間では協調も模索された。チェコ併合直後にソ連は欧州集団安全保障体制を提案したが、イギリスに拒否された。4月15日、英仏はソ連に対してルーマニア・ギリシャへの片務的安全保障体制を提案した。ソ連外相マクシム・リトヴィノフはこれを拒否し、4月17日には代案として英仏ソ三国同盟を提案した。しかしこの交渉中の5月1日にリトヴィノフは事実上更迭され、人民委員会議議長(首相)ヴャチェスラフ・モロトフが後任の外相となった。これはソ連の外交体制変更を告げるものであり[1]、スターリンはドイツとの秘密交渉を開始した。英仏とソ連の交渉は対ソ不信の強いポーランドの拒否もあって成立せず、一方でドイツとソ連は8月24日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはポーランドを独ソで分割する秘密協定も付属していた。, 9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始した。イギリスはフランスと共同して参戦する予定であったが、ドイツと直接国境を接するフランスの対応は慎重であった。交渉がまとまった9月3日11時30分にイギリスはドイツに宣戦し、フランスも同日午後5時に宣戦を行い、両国の自治領・植民地も追随した。しかし英仏の動きは活発ではなく、イギリスがイギリス海外派遣軍(BEF)をフランス国内に派遣したが実際の交戦はせず、独仏国境地帯でのにらみ合いが続いた。この様子はまやかし戦争と呼ばれている。ポーランドは独ソ両国に占領され、9月17日に政府が国外に亡命し、一部の兵士はフランス軍やイギリス軍に入って戦争を継続した(ポーランド亡命政府)。またイギリスはチェコスロバキア亡命政府を承認し、亡命チェコ・スロバキア人も戦闘に参加するようになる。, ソ連が11月にフィンランドに宣戦すると(冬戦争)、連合諸国の間で反ソ感情が高まった。フランス首相エドゥアール・ダラディエはソ連との断交を提案したが、イギリスは拒否した。, 2月17日にはドイツ海軍のタンカーアルトマルクが、ノルウェー領海でイギリス海軍に拿捕され、捕虜を奪還されるという事件が起きた(アルトマルク号事件)。この事件を容認したノルウェーは親連合国的であるとドイツは判断し、侵攻の準備を本格化した。, 一方でフランス軍はなおもフィンランド救援をあきらめず、陸軍総司令官モーリス・ガムランなどはバクー油田を含むカフカース地方への攻撃を考慮していたが、イギリスを説得することは出来なかった。フィンランド国内への援軍派兵も軍を通過させるスウェーデンの拒否に遭い、実現しなかった。3月13日、フィンランドがソ連と休戦協定を結ぶことを余儀なくされると、フランス国内ではフィンランドを救援できなかったダラディエ首相への批判と、即時対ソ宣戦を求める動きが起きた。3月20日、ダラディエ内閣は総辞職し、ポール・レノー内閣が発足した。レノーは政治基盤を左派に頼ったため、ミュンヘン会談でダラディエと決裂したように対独戦争に強硬だった[2]。, 4月9日、ドイツはヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェーとデンマークに侵攻を開始した。デンマークは即日降伏し、ノルウェーもドイツの激しい攻撃を受けた(ノルウェーの戦い)。国王ホーコン7世とその政府は英仏に協力を要請したが、オスロをはじめとする全土の大半はドイツの手に落ち、ヴィドクン・クヴィスリングの親独政権が樹立された。北大西洋がドイツの管制下に置かれることを恐れたイギリス軍は、5月7日にデンマークの同君連合国家であったアイスランドに侵攻し、占領下に置いた。, 5月10日、ドイツは黄色作戦を発動し、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクへの侵攻を開始した。ルクセンブルク政府は即日、オランダ政府は5月12日に亡命し、軍は降伏した(オランダにおける戦い (1940年))。フランスやベルギーでもドイツ軍は猛威を振るい、5月27日にはベルギー国王レオポルド3世と軍がドイツに降伏し、政府はロンドンに亡命した。イギリス海外派遣軍とフランス軍の一部はダンケルクで包囲され、殲滅の危機にあったが、ダイナモ作戦によって救出され、イギリス本土に渡ることが出来た(ダンケルクの戦い)。6月8日にはノルウェー最後の拠点ナルヴィクが陥落し、ノルウェー政府も亡命に追い込まれた。, フランス軍は各地で撃破され、6月16日にはパリが占領された。フランス政府内では降伏の機運が高まり、抗戦を主張するレノー首相は辞職に追い込まれた。後継首相のフィリップ・ペタン元帥は降伏を指示し、6月18日にフランスは降伏した。休戦協定によってフランス北部は占領下に置かれ、フランス政府は南部を統治するヴィシー政権となって戦争から離脱した。しかしシャルル・ド・ゴールを始めとする一部のフランス将兵は国外に脱出し、交戦団体自由フランスとして戦争を継続した。また7月2日にはフランス海軍の艦艇を接収しようとしたイギリス軍とヴィシー政府海軍との間で交戦が発生し、フランス人の間で反英感情が高まった(メルセルケビール海戦)。, ヒトラーはイギリス本土攻略作戦(アシカ作戦)において航空機爆撃を重視し、さかんに空襲作戦を行った。この間の空における戦いはバトル・オブ・ブリテンと呼ばれ、ドイツ側に多大な損害を与えた。イギリスを屈服させられないヒトラーの視線は東に移り、ソ連攻略を計画し始めた。この間、ソ連は6月30日からラトビア・リトアニア・エストニアを占領したが、これは独ソ不可侵条約の秘密条項によるドイツの承認を受けたものだった(バルト諸国占領)。, 9月27日に日本とドイツ、イタリアの3国は日独伊三国同盟を締結した。これは第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が加盟した。, 10月28日、イタリアがギリシャに宣戦し、侵攻を開始した。しかしイギリスの援助を受けたギリシャ軍は優勢であり、イタリア領のアルバニアに逆侵攻するほどであった(ギリシャの戦い)。, アメリカの世論では孤立主義がなおも根強く、ヨーロッパ戦線への関与を求める声は少数であった。しかし大統領フランクリン・ルーズベルトは1937年10月5日の隔離演説で日独伊の三国を「侵略国」として暗に非難し、「平和愛好国」を守らねばならないと演説したように[3]、日独伊の行動を容認する考えは全く持っていなかった。このためアメリカ政府は連合国への支援を開始した。, ポーランド侵攻時には中立を守ると宣言した一方、1939年5月と11月には中立法を改正し、交戦地域を通過して武器を輸出できるようになった。1940年9月2日にはイギリスに旧式駆逐艦50隻を送るかわりに、一部英領基地の使用権を得る協定を締結した(en:Destroyers for Bases Agreement)。12月18日にはルーズベルト大統領が炉辺談話でアメリカは「民主主義の兵器廠(英語版)」であると宣言した。1941年3月11日にはこれに基づいてレンドリース法が成立し、アメリカは連合国への武器貸与を開始した。同年5月27日には無条件非常事態を宣言し、6月にはドイツ・イタリアとの外交関係を断絶した。独ソ戦の発生以降はレンドリースの対象がソ連にも拡大され、莫大な軍需物資が貸与された。また、4月にはデンマーク大使ヘンリク・カウフマン(英語版)と協定を結び、グリーンランドにアメリカ軍が進駐した。7月にはアメリカ=アイスランド防衛協定を結び、イギリスが占領したアイスランドにも進駐した。, 8月にはイギリス首相ウィンストン・チャーチルとルーズベルトが会談し、大西洋憲章が締結された。これはドイツの侵略に反対するとともに戦後の世界構想を提示したもので、将来の国際連合設立の基礎となるものであった。ルーズベルトはアメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の4カ国、すなわち「四人の警察官」で戦後世界の平和を保つべきと主張した。チャーチルは中国の参加には消極的であったが、結局は受け入れた[4]。, 3月にブルガリアとユーゴスラビアが日独伊三国同盟に加盟したが、その直後の27日にユーゴスラビアに政変が起き親独派の政権が倒れた。ドイツはユーゴスラビア侵攻を決め、4月6日に侵攻を開始した。4月17日にユーゴラビア全土が占領され、4月23日にはギリシャも降伏した。両国政府は亡命政府となって連合国に参加し、ユーゴスラビア王国亡命政府は海外からチェトニックを支援して抵抗運動を開始した。6月1日にはクレタ島を失陥し、イギリスは地中海の戦いで不利な状態となった。4月3日にはイラク王国で親独派のラシード・アリー・アル=ガイラーニーが政権を握り、親英派の摂政アブドゥル=イラーフを追放したため、イギリスは5月にイラク全土を占領して摂政イラーフを復帰させ、1947年10月26日まで駐留を続けた。, 6月にはクロアチア独立国が日独伊三国同盟に加盟した。6月22日にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ソ連と連合国は提携し、8月25日には補給線を確保するためイランに侵攻、占領下に置いた(イラン進駐 (1941年))。ポーランド亡命政府もソ連と協定を結び(en)、ソ連軍に捕虜となっていたポーランド軍将兵を再編成することとなった。しかし到着した将兵は捕虜総数にはるかに及ばず、ポーランド側はソ連に不信感を持った。, 9月13日、イタリア軍はイギリスの保護領エジプト王国を攻撃し、北アフリカ戦線が形成された。11月28日にはイタリアの統治下にあったイタリア領東アフリカが連合軍によって占領され、エチオピアでは皇帝ハイレ・セラシエ1世の統治が再開された。同月にはデンマークも日独伊三国同盟に加盟した。, 12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始し、イギリス(オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ニュージーランドを含む)とアメリカに宣戦布告、開戦した。[5]第二次上海事変以来日本と交戦状態にあった(支那事変/日中戦争)中華民国も連合国として続けて日本と戦うとともに、ドイツとイタリアとの間にも宣戦布告をし連合国側に加わった。その後ドイツとイタリアもアメリカに宣戦し、戦域はほぼ全世界に及ぶ事となった。12月26日からはワシントンD.Cでアルカディア会談などの会議が開催され、連合国側で参戦していた26カ国による宣言が準備された。, 1942年1月1日には連合国共同宣言が発表され、単独不講和などが取り決められた。2月にはアメリカとイギリスで作戦を協議する連合参謀本部が設立され、指揮統合のための準備が行われた。東南アジアでは日本軍の攻勢が続き、2月15日には英領マレー半島およびシンガポールが陥落、3月9日にはオランダ領東インド、6月9日にはアメリカの植民地のフィリピン全土が占領された(フィリピンの戦い (1941-1942年))。海戦でもジャワ沖海戦やセイロン沖海戦など連敗が続いたが、6月25日のミッドウェー海戦で日本海軍の主力空母を4隻撃沈するなど初めて勝利したが、以降もアメリカ本土空襲やオーストラリア空襲が行われるなど日本軍の攻勢が続いた。, 独ソ戦ではドイツ軍の進撃も鈍り、スターリングラードを攻略しようとしていた第6軍は完全に包囲された(スターリングラード攻防戦)。また北アフリカではエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍に押され続けていた連合軍は10月24日のエル・アラメインの戦いで勝利し、11月8日にはトーチ作戦でフランス領アルジェリアに上陸、ヴィシーフランス軍の指揮官フランソワ・ダルラン将軍を寝返らせるなど、ようやく攻勢に転じ始めていた。, 1月14日からはルーズベルト大統領とチャーチル首相の間でカサブランカ会談が開かれ、南イタリアへの上陸作戦を行うとともに、枢軸国に対して無条件降伏を求める方針が決定されたが、1月末に日本軍とアメリカ軍の間で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ軍は完敗するなど、枢軸国に無条件降伏を突きつけるには次期尚早であった。, 2月2日にスターリングラードの第6軍は降伏し、ソ連軍の反攻が始まった。その最中の4月13日、ドイツ軍がスモレンスク近郊で大量のポーランド軍将兵の死体を発見し、ソ連軍によって虐殺されたと発表した。ポーランド亡命政府は真相解明を要求したが、ソ連はドイツのプロパガンダであると主張し、亡命政府と断交した(カティンの森事件)。, 3月27日に行われたアッツ島沖海戦では日本とアメリカ軍の両方が大きな損害を受けたが、前年12月頃から続いていた第一次アキャブ作戦では、4月に日本軍がイギリス軍を破るなど、日本軍の勢いは続くかに見えた。, その後も日本軍は7月に行われたコロンバンガラ島沖海戦などで勝利を収めるものの、それに先立ち6月に起きたニュージョージア島の戦いで大きな被害を受けるなど、西はアフリカ大陸沿岸から、東はアメリカ西海岸沿岸までと、当初予定していたより戦線を広げ過ぎたにもかかわらず、1国でイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドなど複数の国と戦う日本の攻勢は弱まり、この頃は各地で両陣営の一進一退となる。, 7月10日に連合軍はハスキー作戦を発動し、シチリア島に上陸した。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合軍との講和に動き、7月24日にはベニート・ムッソリーニ首相を解任、逮捕した。イタリア王国政府は9月8日に休戦を発表したが、ドイツはムッソリーニを救出した上でイタリア社会共和国(サロ政権)を建設し、イタリア北部で抵抗を続けた。, 11月22日にはルーズベルト・チャーチル・蔣介石の三者会談によるカイロ宣言が発表され、日本の戦後処理などの方針が定められた。続いて11月28日からはルーズベルト・チャーチル・スターリンなどによるテヘラン会談が行われ、翌年春にフランスへの上陸作戦を行い「第二戦線」を築くこと、ポーランド国境の画定、ユーゴスラビアのパルチザン支援などが取り決められた。, 昨年11月から日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍などの間で行われていたブーゲンビル島の戦いは、この年に入ると完全に日本軍の劣勢となっていく。また、2月3日に開始された第二次アキャブ作戦においても日本はイギリス軍に敗北し、インド攻略をあきらめざるを得なくなった。, 6月6日には連合国遠征軍最高司令部総司令官ドワイト・D・アイゼンハワー陸軍大将の指揮によるノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)が実行され、アメリカ・イギリス・自由フランス軍などの連合国部隊がフランス北部に上陸し、第二戦線である西部戦線を形成した。8月25日にはパリを解放し、自由フランスによるフランス共和国臨時政府が成立した。9月にはマーケット・ガーデン作戦が失敗し、進撃は一時停滞したものの、10月22日にはアーヘンをドイツ本土で初めて占領するなど着実に戦果を拡大していた。しかし12月16日からドイツ軍の大規模な反攻作戦が開始され、バストーニュが包囲されるなど押し込まれた。連合軍は12月23日から反撃を開始し、迅速にドイツ軍を敗走させた(バルジの戦い)。, イタリアでは6月5日にローマを攻略し、8月11日にはフィレンツェまで至った。10月にはギリシャに上陸したが、王国政府の復帰は進まなかった(ギリシャ内戦)。, 一方東部戦線の赤軍は、6月22日から大反攻を開始した(バグラチオン作戦)。猛攻によりドイツ軍は壊走し、赤軍は占領下にあった領土を奪回するとともにポーランド領の大半を占領した。7月21日には臨時政府ポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)を樹立した。8月1日にワルシャワで国内軍による大規模な武力蜂起が発生したが、10月にドイツ軍に鎮圧された(ワルシャワ蜂起)。この蜂起は国内軍を支持していた亡命政府の指令によるものであり、亡命政府と断交していたソ連はこの蜂起に加勢せず、黙殺したとされている。またフィンランド・ルーマニア王国・ブルガリア王国を枢軸国から脱落させ、ドイツに宣戦させた。12月にはハンガリーのほぼ全土を占領し、ハンガリー臨時国民政府を樹立させた。, 太平洋及びアジア戦線でも連合国軍の優勢となり、3月から7月にかけて行われたインパール作戦ではイギリス、インド両軍が日本軍を破った他、6月19日に行われたマリアナ沖海戦でもアメリカ海軍が日本海軍の機動部隊を破りサイパン島とマリアナ諸島を占領した。アメリカ軍は9月15日からはフィリピンへの上陸を開始し(フィリピンの戦い (1944-1945年))、10月23日から25日にかけてのレイテ沖海戦で日本海軍艦隊に大打撃を与えた。, 政治面では7月にブレトン・ウッズ協定が結ばれ、国際通貨基金と国際復興開発銀行の設立が決定された。8月21日からはダンバートン・オークス会議において国際連合設立に関する討議が行われた。イギリスは米ソの影響力を牽制する目的で「4人の警察官」にフランスを加えるよう主張し、5大国が安全保障理事会常任理事国となる戦後の体制作りが定まった。9月16日に行われた第2回ケベック会談の席上ではドイツを南北に分割し農業国化するモーゲンソー・プランが提案されたが、この案は外部に漏れ、ドイツ国内で反連合国のプロパガンダとして用いられた。10月9日にはモスクワで東欧における英ソの勢力関係を協議する会議が行われたが、合意は行われなかった(モスクワ会談)。, ルーズベルト大統領とチャーチル首相は1月30日からのマルタ会談で米英の意見を調整した後、クリミア半島のヤルタに向かった。2月4日からスターリンも加わったヤルタ会談が行われ、ヤルタ体制と呼ばれる戦後世界の構想が固められた。この中でポーランドの国境変更、ドイツ・日本の領土変更、ソ連の対日参戦などが決められた。ポーランドの領土は東から西に大きく変更されることとなり、大西洋憲章で謳われた領土変更に関する人民の意思の尊重が、ヤルタで裏切られたと見るものもいた(en:Western betrayal)。, 前年から続いていたバルジの戦いでは、1月末にドイツ軍を本土の攻撃開始地点まで押し返した。3月には米英軍がライン川を渡ったが、この頃から両者の間で戦略目標をめぐる争いが起こった。イギリスはベルリンを目指すべきと主張したが、アメリカ側はベルリン南方のドレスデン攻略優先を主張した。この考えにはナチス政府がすでにベルリンから疎開しているという考えがあり、アルプス地域に要塞を築こうとしているという懸念があった[6]。4月1日にはドイツの工業地帯ルール地方の包囲に成功し、4月21日に占領した。, 赤軍は2月にハンガリー全土を占領し、ドイツへの石油供給を絶った。ドイツ軍の春の目覚め作戦による反攻も跳ね返し、東プロイセン、オーストリアに進撃した。4月16日からはベルリン作戦を発動し、首都ベルリン攻略を開始した(ベルリンの戦い)。4月25日にはアメリカ軍と赤軍の兵士がエルベ川付近で遭遇し、東西戦線がついに邂逅した(エルベの誓い)。, ヒトラーが4月29日に自殺したことで、ベルリンは翌4月30日に陥落した。後継者となったカール・デーニッツ元帥は政府(フレンスブルク政府)を組織したが、彼に出来ることはもはや兵士をできるだけ米英軍に降伏させることだけであった。5月2日にはイタリアのドイツ軍が降伏し、ドイツ国防軍自体も5月7日に米英軍、8日にソ連軍に降伏した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)、ドイツ降伏の流れ(英語版))。プラハの戦いは5月11日まで続いたが、欧州戦線における戦闘は5月上旬でおおむね終了した。これにより連合国軍は対日戦に集中することになった。, 対日戦では3月にフィリピン全土が連合軍の支配下となり、2月から3月には硫黄島の戦いが行われることで、初めて日本の領土で地上戦が行われた。硫黄島に空港を敷設することで連合軍は日本全土の制空権を掌握し、大規模な空襲を行えるようになった。3月26日からはアメリカ軍とイギリス軍が主体になり、日本軍に対して沖縄戦を開始し、6月20日には全島を占領した。これ以降、日本本土はアメリカ軍やイギリス軍による空襲と艦砲射撃による攻撃を受けることになる。, 7月17日にはポツダム会談が開かれた。これに先立つ4月12日にルーズベルトは死去しており、チャーチルは会議中に選挙で敗北したため首相を辞任しクレメント・アトリーにその座を譲った。会議ではドイツの占領統治などを定めたポツダム協定が取り決められ、公式日程では競技されていなかったが、日本への降伏を迫るポツダム宣言も期間中に発表された。, 8月6日には、アメリカ軍が広島、8月9日に長崎への原爆投下を行い、8月8日にはソ連が対日参戦した。ソ連を通じた停戦工作を画策していた日本政府は降伏を決断し、8月14日にポツダム宣言受諾を通知した上で、15日に発表した。9月2日、戦艦ミズーリ上で降伏文書署名が行われ、太平洋戦争および第二次世界大戦は終了した(日本の降伏)。, 終戦後、連合軍はドイツ・オーストリア・朝鮮半島は分割して軍政下に置き(連合軍軍政期 (ドイツ)、連合軍軍政期 (オーストリア)、連合軍軍政期 (朝鮮史))、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じた間接統治による占領下に置いた(連合国軍占領下の日本)。また連合軍主導による軍事裁判で日独の戦犯を裁いた(ニュルンベルク裁判、極東国際軍事裁判)。ドイツと日本を除く枢軸国とは1947年2月10日のパリ条約によって講和が行われた。, 東欧の旧枢軸国はソ連の占領下に置かれ、ソ連主導の政府が作られていった。ポーランドやチェコスロバキアの亡命政府は復帰しようとしたものの、やがてソ連主導による新政府が設立され、ポーランド亡命政府は結局冷戦終了までロンドンに残ることとなった。ユーゴスラビアやアルバニアではパルチザンの主導する社会主義政府が成立し、亡命していた王国政府の復帰はかなわなかった。, こうして戦争中から発生しつつあったソ連と米英のズレはついに対立となり、1948年にはソ連がベルリンにつながる輸送路を封鎖する事件が発生する(ベルリン封鎖)など、冷戦が勃発した。このためドイツと朝鮮半島における占領地域はそのまま東西の勢力圏となり、分断国家の領域となった。1948年には朝鮮半島ではソ連占領地域の朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ占領地域の大韓民国が成立し、1950年6月25日に東西の代理戦争とも言える朝鮮戦争が勃発した。, 日本における占領は1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約締結、1952年4月28日の条約発効によって終結した。その後日本は条約に参加しなかった連合国との平和条約・または戦争終結の合意を順次行った。ソ連および承継国のロシアとは戦争終結に関する宣言は出されたが、平和条約はいまだに調印されていない。, ドイツにおいては1945年7月6日に設置された連合国管理理事会(英語版)が統一統治を行う予定であったが、東西対立のため実行されなかった。1949年5月にソ連占領地域のドイツ民主共和国(東ドイツ)と、米英仏占領地域のドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立した。1955年には占領行政が終了したが、西ベルリンはなお米英仏の連合国軍統治下にあり、東ドイツにはソ連軍が駐屯していた(ドイツ駐留ソ連軍)。この状態は1990年まで続き、ドイツ再統一前のドイツ最終規定条約でようやく連合国とドイツの講和が成立した。ソ連軍が最終的に撤退したのは崩壊後のロシア軍に変わった1994年8月31日のことであった。, Imlay, Talbot C. "Paul Reynaud and France's Response to Nazi Germany, 1938–1940," French Historical Studies 26.3 (2003), 敵国及断交國一覧表(改訂)(昭和19年11月30日現在),条二普通合第247号「敵国及断交國一覧表送付ノ件」,外務省条約局第二課 (, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=連合国_(第二次世界大戦)&oldid=80868253.